発表の記録 刑務所でのボランティア

令和元年(2019年)に岩見沢市で開催された札幌管区教誨師研修大会での研究発表の記録です。

刑務所や少年院といった「矯正施設」で被収容者の宗教的欲求に応え、心に寄り添い、再犯の防止と社会の安定に寄与する宗教者のボランティアを「教誨師」といいます。こういうボランティアもあるんだなーと知っていただけたら幸いです。

心の平安~いま、ここの坐禅~

 帯広市の曹洞宗永祥寺で住職をさせていただいています織田秀道と申します。現在、帯広刑務所で月1回坐禅クラブを担当させていただいています。この度研究発表のお役を仰せつかりましたが、まだまだ私自身がより良い内容を模索し続けている段階にあります。それにも関わらず諸先輩を前にして発表させていただくというのはお恥ずかしい限りですが、教誨師の一員にさせていただいて以来5年間で様々な研修に出させていただきました。その学びと今の私のクラブ活動の中身をお話しさせていただきます。お付き合いのほどをお願い申し上げます。

発表内容

  1. 帯広刑務所について
  2. 坐禅クラブの状況と内容
  3. 坐禅の功徳について
  4. 被収容者に望むこと

1,帯広刑務所について

 帯広刑務所は処遇指標B 犯罪傾向の進んでいる者(再犯・累犯・反社会的勢力)の施設なので暴力団と関わった経歴のある被収容者が多いようです。年間行事の刑務所運動会の見学の案内をくださるのでなるべく参加するようにしていますが、作業服を脱いだ半袖短パンの姿になると和彫の刺青を入れている人が多く見受けられます。

 研究発表から少し逸れますが、皆様は刑務所運動会のような行事の見学をする機会はおありでしょうか?帯広刑務所の運動会はとても盛り上がる一大行事です。各工場がそれぞれチームとなり、威勢のいい応援合戦が繰り広げられます。あまり大声を出す機会が少ないからなのか、各チームとも童心に返ったように一つ一つの種目を全力で応援しています。高齢の被収容者が出てくるとどうしても周りから遅れてしまうのですが、ゴールするまで応援の声と拍手が送られている光景からは温かみを感じます。初めて参加させていただいた時、人間味あふれるその光景を見るまでは自分と被収容者の間に距離を大きく取って接していたように思います。一人一人の罪状もそこに至った経緯も知らないのにです。力一杯応援して、仲間を労っている姿を見て私は「怖いばかりでなくて、優しいところもあるんだな」と感じていました。同時に、被収容者たちを初めから「悪人」と決めつけて見てしまっている自分の心に気づかされました。私が教誨師のお役をいただいた時から大切にしているつもりだった心構えーー夏目漱石の「こころ」という小説のある登場人物「先生」が主人公に伝えた言葉「世の中には善人と悪人という二種類の人間がいるのではない。普通の人がいざという場面で悪を働いてしまうというのを心しておくように」というような教えがあります。私が被収容者を「普通の人」としてではなく、はじめから「悪人」というイメージで見ていたから、運動会の熱心な姿を「被収容者の意外な一面」という風に受け取ったのでしょう。生きとし生けるものは皆生まれながらに仏である。穏やかで慎み深く、他者への慈しみに満ちた心を持って生まれてきているというのが大乗仏教の精神であると私は理解しています。修行を通してそのことを実感し、また他者に説く立場のはずの自分がそのことを忘れていたのではと反省もいたしました。

 皆様の中で、刑務所運動会にまだご出席が適っていない方がいらっしゃいましたら、都合のつけにくい時間帯ではありますが調整されて一度ご見学されることをお勧めします。

 被収容者の罪状は窃盗と薬物犯罪が多いとお聞きしています。

2.坐禅クラブの状況と内容

 17:40~18:30で月1回の開催、全6回のクラブです。定員は9名で、今のところは初回はほぼ定員での開催となっています。繰り返し参加しても良いから願箋を書いてくださいと呼びかけていることもあり、リピーターの参加者が多いようです。

 内容ですが、まず部屋には人数に対応した枚数の畳が敷かれています。坐禅に用いる座布団の形を整え、その上に座り足を組んでいただきます。そこからは曹洞宗の坐禅で重要視している「調身・調息・調心(姿勢と呼吸を調えることで心が落ち着いていくという意味)」の考えに沿って5分ほどで座り方のガイドをします。その時、坐禅をする意義についてーー日常生活から離れる時間を作ることで思考が整理される・感情を抑制する能力が高まる・ストレスの源となる「過去の記憶」や「未来への不安」という思考から解放される時間を持つ・自分のいのちのはたらきを感じる時間ーーなどを話します。坐禅というと一般の方には「精神が乱れているのを察知した僧侶に肩を棒で叩かれる」といった厳しい修行のイメージが未だ払拭されていないのを感じますが、決して苦行ではなく、坐禅クラブに休みに来たのだと思って座るようにとお話しします。なので肩を棒で叩くというのも坐禅の本来の意義とはかけ離れた行為です。本山のような修行道場においては、厳しい生活による睡眠不足のために坐禅中に眠ってしまう僧侶の目を覚ますために用いる棒です。刑務所では被収容者はそこまで疲労困憊の状態でもないようで坐禅中に寝てしまう方は一人もいません。いたとしても、そのまま少し眠っていただいて目が覚めた方がよほど気持ちが落ち着いた坐禅になると私の経験から言えます。なので、坐禅クラブに棒は全く必要ありませんし音がうるさいので叩きたくないのですが、クラブに申し込んでくださる方には叩かれるのを希望される方が非常に多いようです。叩かれたい方は坐禅中に合掌をしていただくのですが、1回の坐禅中に2回合掌される方もいらっしゃって渋々叩かせていただいています。

 実際に坐禅していただくのは15~20分程度です。坐禅が終わった後は私の身の上話や近況報告から入り、仏教を中心とした講話をあわせて15分程度行っています。身の上話をする理由は、6回のコースの中で話に耳を傾けていただける関係性を作るために、まず自己開示をしていこうと考えたからです。平成30年9月に法務省で行われた研修会に参加させていただいた際、同じ班になった教誨師の方が教誨では自分の体験を、特に失敗談を語ることで相手がよく話を聞く姿勢になってくれるんだということをお話しになっていたので、それを取り入れているところです。今の私の家庭環境の話や、健康上の不安の話をしています。そして私は曹洞宗の僧侶で、修行は福井県の大本山永平寺というところに行っておりました。そこでの先輩に抑圧された自由のない生活が刑務所と通じる部分があるように感じていますので、そこでの嫌な思い出だったり、学んだことを語ったりもしています。よかれと思ってやっていますが、これが参加者からどう受け取られているかはわかりません。感想を聞いてみたいところです。

 講話の内容はA4のプリントにして配り、それを読みながら進めていきます。講話のプリントは持ち帰っていただいています。講話では経典や禅語の解説、大本山永平寺での修行で学んだこと、アラン「幸福論」や菜根譚など仏教以外の題材を用いることもありますがどの題材も物事の捉え方に新たな視点が加わるような、日常生活に即した内容を選ぶよう心がけています。

 一つ例をあげます。あるとき刑務官の方から「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」が平成18年に施行され、それ以前と以後では矯正処遇のやり方が随分変わって被収容者の人権をより尊重する内容に改められたことをお聞きした時、修行生活での苦い体験を思い出しました。曹洞宗の修行生活では、現代人の食生活と比較すると品目と量が非常に制限されており、空腹に耐えながらその上で睡眠も毎日4~5時間という生活が続きます。加えて先輩達の指導が厳しく毎日叱責を受け続けるので、修行に入った当初は皆心の余裕がなくなっていき怒りっぽくなりますし、抜け駆けしてでも人より多く食べようとしたり、寝てはいけない時間に隠れて寝る者が出てきます。食と睡眠が満たされない生活が、修行僧同士の仲を悪くしていきます。生活にゆとりがなければ自分を律することも、他者への寛容さを持つことも難しいというのをその時に実感しました。ゆとりがなければ、その状況に陥ることはおかしなことではなくて、私も同じだったということをお伝えしました。これも先ほど申し上げた夏目漱石「こころ」の中に出てくる言葉に通じるところと思います。環境を整えていくことが心の平安を実感していくのには大切なことであって、坐禅をすることで、そんな日常から離れる時間を過ごせるということをお話ししました。

3,坐禅の功徳について

 禅の修行とは人間を超越した存在に到達するための鍛錬のようなものではないといいます。坐禅に入ると自我のはたらきが弱まり、自他の境界が薄れる実感を得られることがあります。その時自己の存在の正体ー縁起・空ーが露わになり「今、この場で救われている・満たされている」体験をします。いのちへの感謝と育まれた慈悲心をもって、日常生活の中で利他行を実践していくというのが禅の思想です。よって坐禅は手段ではなく、それ自体が目的でありますが、クラブにおいては坐禅を始めにすることで落ち着いた状態で講話が聞けるようになっているという効果もありそうです。

4,被収容者に望むこと

 仏教伝道協会発行『仏教聖典』22ページにこのような一節があります。「親はどれほど多くの子供があっても、その可愛さに変わりがないが、その中に病める子があれば、親の心はとりわけその子にひかれてゆく。仏の大悲もまた、すべての人々に平等に向かうけれども、ことに罪の重い者、愚かさゆえに悩める者に慈しみとあわれみとをかける」。

 平成27年にマインドフルネスの世界的な指導者であるベトナム人僧侶ティク・ナット・ハンの弟子30人を全国曹洞宗青年会が曹洞宗宗務庁に招聘し、青年僧侶との交流会を開催しました。交流会の中で質疑応答の時間があり、ある日本の僧侶が「あなた方の理想とする社会はどのようなものですか」と質問をしました。

 おりんを一度鳴らして少しの沈黙の後、弟子の代表の方がお答えになったのは「理想の社会が実現されたことは、歴史上で一度もありません。世界は苦に満ちています。その中で、私たちにできることは個人個人の心の平安を求めること」ということでした。

 罪を犯し被害者を生み、人を深く傷つけてしまった過去と、釈放後の厳しい現実を我々がどうにかすることはできません。状況を変えることはできませんが、お釈迦様の教えがすべての生きとし生けるものの幸福のためであるのと同じように、宗教的欲求を持って教誨活動に参加してくる被収容者の「心の平安」のために尽くすのが宗教教誨の役割であると考えています。私は、厳しく叱りつけられるとたとえそれが正しいと思える言葉でも相手への怒りが込み上げてしまい、受け入れられなくなります。かえって教誨師の優しさに触れることで反省の心というものは芽生えるのかもしれません。

 これも平成27年の出来事になりますが、私は全国曹洞宗青年会という組織に所属しており、その広報誌を作る委員会の役目で東京にある府中刑務所を取材させていただいたことがあります。府中刑務所というところは他の施設と比較して教誨師の役割が多いそうで、刑執行開始時の指導として40分間の講話と、釈放前の指導として1時間の講話も教誨師が担当するそうです。そこの教誨師の方が被収容者と接する基本的な態度として次のようなことをおっしゃっていました。「 事件を起こした過去はもう変えられないことですが、これからの生き方によって過去の出来事の意味を変えることはできるという意識でやっています、と。『俺はどうせムショ上がり』という意識で生きていく限り、繰り返しになってしまいます。今までの出来事は消せはしないけれど、今後の心持ちで、『刑務所があったから今生きられる』という方向に変換できるチャンスがあるというのを根底においてやっています」とお話しされていたことがとても印象に残っています。禅の言葉に「日日是好日(にちにちこれこうにち・こうじつ)」というものがあります。これは喜ばしい時も、悲しみ苦しみの時も状況を受け入れ、それを自分の糧と捉えて肯定的に生きていけるならば毎日が素晴らしいという意味であると一般的に解釈されています。釈放された後も、刑務所での暮らしがあったから坐禅に出会うことができたと感じていただけるよう、坐禅の体験や講話の中から何か一つでも得るものがあって胸に残ってくれればと願っています。

りきまる

なんて殊勝な発表を…お坊さんみたいですね。

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