目次
新型コロナウィルス感染防止にご協力ください
参加していただく上での注意事項です。
- 自分そして同居する人に発熱か咳の症状が2週間以上ない
- 発熱か咳の症状がある人と2週間以上接触していない
- マスク着用
お水やお茶の持参はご自由にお願いします。
本堂に入ったらしていただくこと
- お電話番号を記入していただきます。
- 備え付けの消毒済みボールペンで記入し、使用済みペンの入れ物に入れて中にお入りください。
「その功徳、はかりつくすべからず。しかあればすなわち、よのつねに打坐する、福徳無量なり」『正法眼蔵 三昧王三昧』巻
曹洞宗の教えを日本に伝えた道元禅師は、「坐禅の功徳ははかりつくすことができない」そして「日常的に坐禅を行う福徳は無量である」と示されています。
平成20年5月から始まった坐禅会は住職が最も力を入れている活動です。坐禅の後は毎回住職の講話があります。
日時
毎月第1・第3日曜日(8月は休会です)AM7:30開始、AM8:40ごろ終了

参加のしかた
- 無料・予約不要です。
- 宗教宗派を問わずどなたでもご参加いただけます。
- 開始5分前には本堂に入り、棚から自分の座る坐布を取り、空いている場所に座り靴下を脱いでお待ちください。靴下を脱ぐのは坐禅がしやすいからです。冷え症の方は無理せず結構です。
- 7:30から住職の坐禅指導が始まります。
坐禅する時間
20分間坐り、しばらく足を休めて歩き、15分間坐り終了となります。あぐらや正座でもかまいません。型通りに坐れなくても、まずは本堂で静寂のひと時を過ごしてみましょう。坐禅後は住職の講話があります。

もちもの
特にありません。冬は暖房をつけますが、寒いと感じる方は毛布を持参して肩や足にかけるなど自由です。
禅とはどういう思想か
智慧と慈悲・自利と利他・感謝と思いやり
大乗仏教の思想は「智慧と慈悲」に集約されます。
お釈迦様は「生きることは苦の連続であること」「そして苦を滅する実践(道)があること」を悟られました。これらお釈迦様の悟りを「智慧」といいます。
苦を滅する実践(道)は「八正道(はっしょうどう)」といい八段階で説かれています。その最後、八番目が正定(しょうじょう)、「正しい禅定」です。
お釈迦様の智慧たる坐禅ですが、私自身、毎朝「正定」といえるような素晴らしい坐禅に没入できているかというと正直難しいです。しかしそれでも、生かされている自分・自然と一体である自分に気づき、感謝の気持ちに包まれる体験はよくあります。そういう坐禅ができた日は心持ちが違うのが実感できます。
しかし、曹洞宗では坐禅によって満たされたとしても自己を満足させることだけで終わるのを良しとしません。坐禅によって育まれるあたたかい感情「慈悲心」を他者に向け、思いやりの心で接する行い「利他行(りたぎょう)」を日常で実践していくことで自分自身の心も満たされるというのが禅の精神です。だから智慧と慈悲はセットの教えであり、車の両輪とも喩えられます。
坐禅の時の気持ちを日常に展開していくのが大事であるという教えです。明治以降に整備された現代の曹洞宗の教えはこの一言に尽きると思います。
こういった利他行を重視する思想の背景があり、日本の僧侶は社会活動に積極的に取り組むところが他国の仏教徒からは珍しく映るそうな。
うちのお寺の毎朝のお勤めも坐禅から始まります。とても穏やかな気持ちで一日を始めることができています。
曹洞宗の公式サイト「曹洞禅ネット」に曹洞宗の坐禅の記事がありますのでご覧ください。昭和期を代表する禅僧・澤木興道老師のお寺として知られる安泰寺のホームページでも坐禅について詳しく紹介されています。


よくあるご質問

叩きません!僧侶が持つ棒は「警策(きょうさく)」といい、眠っている修行僧を起こすものです。坐禅会では一般の方が眠っていても叩いていないので落ち着いて坐禅してください。叩かれてみたいという方に限り叩かせていただいています。
叩く音は堂内にかなり響きます。坐禅に入り込んでいる心が一気に引き戻されてしまうので、正直あまり叩きたくありません。

どうやっても心を無にできません!
「羊や牛をコントロールするには、広々とした、余裕のある草地に放すことです。
そして見守るのです。これが一番いいやり方です。無視することは、よくありません。それは一番よくないやりかたです。二番目に良くないのは、コントロールしようとすることです」『禅マインドビギナーズマインド』鈴木俊隆

私自身、毎日おだやかな坐禅ができているわけではなく、やっぱり身体の調子が心に影響するのを感じます。体調の優れない日は坐禅の時間がとても長く感じたりもします。
このような禅語があります。
「長空は白雲の飛ぶを礙(さまた)げず」
私たちが自分の心だと思っているものは「広大な空に浮かぶ一つの白い雲」のようなものと考えてみてください。心というものの実態は、白雲のように慌ただしく右往左往する小さなものではなく、その存在を包み込む大空のようなものだと仏教では考えます。
一般的にいう「心」や「性格」というものは、仏教の世界から見ると外部からやってくる刺激・情報に対する反射作用です。この反射のしかたは、我々の人生経験により常に変化していきます。
生きている限り反射作用を無くすことは不可能ですよね。
大空は白雲の飛ぶのを妨げることはありません。
心がどのように動いて抑制が効かなくとも、正しい呼吸と姿勢をたよりにして、坐禅におまかせすれば良いのです。そうすれば自ずと安らかな境地に至っている自分に気づく事でしょう。

坐禅にはどんな功徳がありますか?

私の実感では落ち着いた1日の始まりになっていますね。その分周りの人に優しくなれているような。

坐禅は「無功徳」と表現されるため、功徳が無いと言われがちです。しかし最初に紹介したように道元禅師は「はかりしれない功徳がある」と言われています。
無功徳とは「社会生活における能力向上といった目的とは無関係な行い」と捉えた方が良いでしょう。
普勧坐禅儀に「諸縁を放捨し、万事を休息す」とあります。私が思うに坐禅は、
- 寺院という非日常空間に自ら足を運び
- 生活上のあらゆる雑事から離れ
- 姿勢と呼吸を調えて自分のいのちのはたらきに向き合う
という行いです。
「身も心も天地自然と一体の、ひとつながりの中で生かされている自己である」という自分のいのちの実際がいきいきと感じられるのが坐禅であると捉えています。
自分という存在そのものに深く向き合うことのできる行いと考えております。

呼吸はどのようにするのですか。
・小乗の人は数息をもって調息となす。しかれども仏祖の弁道は永く小乗に異なれり。仏祖の曰く…中略…二乗自調の行をなすことなかれと。
・大乗にもまた調息の法あり。いわゆるこの息は長し、この息は短しと知る。すなわち大乗の調息の法なり。息は丹田に至って還って丹田より出ず。出入異なりといえども、ともに丹田によって入出す。無常あきらめやすく、調心得やすし。
・息入り来って丹田に至る。…中略…大乗にあらずといえども小乗に異なり、小乗にあらずといえども大乗に異なれり。…中略…出息入息、長にあらず短にあらず。
内山興正老師『坐禅の意味と実際』43ページ 道元禅師の説法録『永平広録』から引用

『永平広録』で説かれているこの部分を要約すると、
・上座部仏教の人は呼吸を数えることで調える。しかし坐禅は上座部の仕方とは異なる。
・日本に伝わった大乗仏教にも呼吸を調える方法がある。呼吸の一つ一つの長い短いに意識を向けるというものだ。息は丹田(下腹部)を入出するように行う。無常を実感しやすく、心も調いやすい。
・すでに日本に伝来していた大乗仏教の呼吸とも上座部とも異なり、道元禅師の宋での師である天童如浄禅師が「息は丹田に入り、長くもなく短くもない」と語られています。
お腹を使うことだけを意識し、息の長さは気にしなくて良いようです!
やっぱりいきなり後ろから棒で叩いたりするんですか?