令和6年4月7日は坐禅会をお休みします。釈尊降誕会・大般若祈祷法要の当日のため。

開催日

毎月第1・第3日曜日(8月は休会です)AM7:30開始、AM8:35ごろ終了

場所

本堂 入り口上部に「十勝山永祥寺」と書いてある建物です

マスク着用は自由

坐禅は広い本堂で静かに行うのでマスク着用は自由です。

「その功徳、はかりつくすべからず。しかあればすなわち、よのつねに打坐する、福徳無量なり」『正法眼蔵 三昧王三昧』巻

曹洞宗の教えを日本に伝えた道元禅師は、「坐禅の功徳ははかりつくすことができない」そして「日常的に坐禅を行う福徳は無量である」と示されています。

平成20年5月から始まった坐禅会は住職が最も力を入れている活動です。毎回住職の講話があります。

  1. 無料・予約不要です。
  2. 宗教宗派を問わず参加できます。
  3. 開始5分前には本堂にお入りください。
  4. 棚から自分の座る坐布を取り、空いている場所にお座りください。
  5. 靴下を脱いでお待ちください。靴下を脱ぐのは足を組みやすいからです。冷え症の方は無理せず結構です。
  6. 7:30から坐禅指導が始まります。
  7. トイレのための退出は坐禅中でも自由です。
  8. 携帯電話は「機内モード」設定をお勧めします。サイレント設定にしていても振動音は本堂に響きます。
  9. お腹の音も響きますが、お腹が鳴るのは自然のことと諦めましょう。

ありません。暑い日は飲み物を、寒いと感じる方は毛布を持参して肩や足にかけるなど自由です。

20分間坐り、しばらく足を休めて歩き、15分間坐ります。あぐらや正座でもかまいません。型通りに坐れなくても本堂で静寂のひと時を過ごしてみましょう。坐禅後は住職の講話があります。

智慧と慈悲・自利利他・感謝と思いやり

大乗仏教の思想は「智慧と慈悲」に集約されます(注釈※1)。また、「自利利他」も大乗仏教を象徴する教えです(注釈※2)。

お釈迦様は「生きることは苦の連続であること」「そして苦を滅する実践(道)があること」を悟られました。これらお釈迦様の悟りを「智慧」といいます。

苦を滅する実践(道)は「八正道(はっしょうどう)」です。八つの実践法が説かれていますが、その第一であり根幹部分が「正見(しょうけん)」です。お釈迦様の教えに沿ったものごとの見方、捉え方のことを「正見(しょうけん)」といいます。この正見に達することを目的として他の七つの実践法が説かれています。その八番目が正定(しょうじょう)、「正しい禅定」です。

自分自身を含めて世の中の全ては絶えず移り変わり続けていくもの(無常)で永久不変の実体ではなく(非我)、他者との関係性によって成り立っている(縁起)に過ぎないのだから執着すべきものは何もない。これが正しい見方です。こういったものの見方をできない思考(無明)を離れてこそ、苦を滅する(涅槃に到る)ことができるとお釈迦様は気づかれました。

(この文の参考資料は宗務庁発行『釈尊伝』69ページ前後)

お釈迦様の智慧たる坐禅ですが、私自身、毎朝「正定」といえるような坐禅に没入できているかというと正直難しいです。それでも、生かされている自分・自然と一体である自分に気づき、感謝の気持ちに包まれる体験はよくあります。そういう坐禅ができた日は穏やかな心境になっているのが実感できます。私はこれを「自利」と捉えています。

しかし、曹洞宗では坐禅によって満たされたとしても自己を満足させることだけで終わるのを良しとしません。坐禅によって育まれるあたたかい感情「慈悲心」を他者に向け、思いやりの心で接する行い「利他(りた)」を日常で実践していくことで自分自身の心も満たされるというのが禅の精神です。だから智慧と慈悲はセットの教えです。

坐禅の時の気持ちを日常に展開していくのが大事であるという教えです。明治以降に整備された現代の曹洞宗の教えはこの一言に尽きると思います。

坐禅の中において、衆生を忘れず、衆生乃至昆虫をも捨てず、常に慈念を給いて、誓って済度せんことを願い、あらゆる功徳を一切に回向す。この故に仏祖は、常に欲界に在って坐禅弁道す。

(宝慶記)

生きとし生けるものに慈しみの心を向け続けるというのが道元禅師が説かれた坐禅のあり方です。こういった利他を重視する思想の背景があり、日本の僧侶は社会活動に積極的に取り組むところが他国の仏教徒からは珍しく映ると聞いたことがあります(注釈※3)。

永祥寺の毎朝のお勤めも坐禅から始まります。とても穏やかな気持ちで一日を始めることができています。

曹洞宗の公式サイト「曹洞禅ネット」曹洞宗の坐禅の記事がありますのでご覧ください。昭和期を代表する禅僧・澤木興道老師のお寺として知られる安泰寺のホームページでも坐禅について詳しく紹介されています。

よくあるご質問

りきまる

やっぱりいきなり後ろから棒で叩いたりするんですか?

住職

叩きません!僧侶が持つ棒は「警策(きょうさく)」といい、眠っている修行僧を起こすものです。坐禅会では一般の方が眠っていても叩いていないので落ち着いて坐禅してください。叩かれてみたいという方に限り叩かせていただいています。

叩く音は堂内にかなり響きます。坐禅に入り込んでいる心が一気に引き戻されてしまうので、正直あまり叩きたくありません。

りきまる

どうやっても心を無にできません!

「羊や牛をコントロールするには、広々とした、余裕のある草地に放すことです。
そして見守るのです。これが一番いいやり方です。無視することは、よくありません。それは一番よくないやりかたです。二番目に良くないのは、コントロールしようとすることです」

『禅マインドビギナーズマインド』鈴木俊隆

住職

私自身、毎日おだやかな坐禅ができているわけではなく、体調が心に影響するのを感じます。坐禅の時間がとても長く感じたりもします。

このような問答があります。

問「如何なるか仏法の大意」

答「長空は白雲の飛ぶを礙(さまた)げず(石頭希遷大和尚)」

私たちが自分の心だと思っているものは「広大な空に浮かぶ一つの白い雲」のようなものと考えてみてください。心というものの実態は、白雲のように慌ただしく右往左往する小さなものではなく、その存在を包み込む大空のようなものだと考えます。

「心」や「性格」というものは外部からやってくる刺激・情報に対する反射作用です。この反射のしかたは、我々の人生経験により常に変化していきます。

心を無にするには死ぬよりほかはなく、生きている限り反射作用を無くすことは不可能です。

大空は白雲の飛ぶのを妨げることはありません。

心がどのように動いて抑制が効かなくとも、正しい呼吸と姿勢をたよりにして坐禅におまかせすれば良いのです。しだいに自分と他人という区分が意識されなくなり、自ずと安らかな境地に至っている自分に気づく事でしょう。このような境地を道元禅師はあえて悟りとは呼ばず「身心脱落(しんじんだつらく)」と名付けました。

(道元禅師がなぜ悟りではなく身心脱落と表現したかは『構築された仏教思想 道元』佼成出版社113ページからをお読みいただくと理解が深まります)

りきまる

坐禅にはどんな功徳がありますか?

住職

功徳という言葉の意味については別のところで書くとして・・・私の実感では落ち着いた1日の始まりになっています。その分周りの人に優しくなれる心のゆとりが生まれます。

住職

坐禅は「無功徳」と表現されるため功徳が無いと言われがちですが、道元禅師は「はかりしれない功徳がある」と言われています。

無功徳とは「社会生活における能力向上といった目的とは無関係な行い」と捉えた方が良いでしょう。

普勧坐禅儀に「諸縁を放捨し、万事を休息す」とあります。

  • 寺院という非日常空間に自ら足を運び
  • 生活上のあらゆる雑事から離れ
  • 姿勢と呼吸を調えて自分のいのちのはたらきに向き合う

のが坐禅です。

「身も心も天地自然と一体の、ひとつながりの中で生かされている自己である」という自分のいのちの実際がいきいきと感じられるのが坐禅であると捉えています。

自分という存在そのものに深く向き合うことのできる行いと考えております。

りきまる

そんなにいいものならどうして曹洞宗のお経には坐禅が出てこないんですか?

いやー普勧坐禅儀をはじめとして祖録には膨大に出てきますよ。でもまあ・・・現在の曹洞宗でよくお読みしている修証義の中には一度も出てこないのは確かですね・・・

私は普勧坐禅儀を今からでも修証義の中に盛り込むべきだと思ってますよ。修証義は

1、仏教の目的を示す 2、懺悔することから仏の道は始まる 3、戒めを持って日々を生きていこう 4、いたわりの行いを実践しよう 5、この教えに出逢えたことを恩として、恩返しのために利他行に励もう

という内容です。話の道筋が通ってて倫理的な教えですが、そういう生き方を志す力をもたらす原動力はいったい何なのかが抜け落ちているように私には見えます。それらの根本にある行いが坐禅だと思っています。

ねこだるま

呼吸はどのようにするのですか。

・小乗の人は数息をもって調息となす。しかれども仏祖の弁道は永く小乗に異なれり。仏祖の曰く…中略…二乗自調の行をなすことなかれと。

・大乗にもまた調息の法あり。いわゆるこの息は長し、この息は短しと知る。すなわち大乗の調息の法なり。息は丹田に至って還って丹田より出ず。出入異なりといえども、ともに丹田によって入出す。無常あきらめやすく、調心得やすし。

・息入り来って丹田に至る。…中略…大乗にあらずといえども小乗に異なり、小乗にあらずといえども大乗に異なれり。…中略…出息入息、長にあらず短にあらず。

内山興正老師『坐禅の意味と実際』43ページ 道元禅師の説法録『永平広録』から引用

住職

『永平広録』で説かれているこの部分を要約すると、

・上座部仏教の人は呼吸を数えることで調える。しかし坐禅は上座部の仕方とは異なる。

・日本に伝わった大乗仏教にも呼吸を調える方法がある。呼吸の一つ一つの長い短いに意識を向けるというものだ。息は丹田(下腹部)を入出するように行う。無常を実感しやすく、心も調いやすい。

・すでに日本に伝来していた大乗仏教の呼吸とも上座部とも異なり、道元禅師の宋での師である天童如浄禅師が「息は丹田に入り、長くもなく短くもない」と語られています。

お腹を使うことだけを意識し、息の長さは気にしなくて良いようです


注釈

大修館書店刊行『禅学大辞典』を参照しています。

【智慧】一般に、その音訳般若が最高の智慧として用いられるが、般若だけでは普通の智慧であり、波羅蜜がついて最高の智慧になる。

【般若波羅蜜】諸法の実相を照らし窮尽する菩薩の大慧。…諸仏の母と呼ばれ、六波羅蜜の中心をなす。

【般若】意訳慧・智慧。心の作用で、了達を性とし、四諦の境を知り、煩悩生死を除く智慧。…仏果を得るための最も重大な要素とされるにいたる。…慧能以後の南宗禅では禅定と一如とみている。

禅学大辞典より

【慈悲】慈は与楽、衆生を慈しみ、衆生に幸福を与えること。悲は抜苦、衆生の苦難を救い、苦境を脱せしめること。…また、仏・菩薩の衆生救済の方便として、最も重んぜられる

禅学大辞典より

私達は、このご本尊であるお釈迦さまを礼拝すると共に、仏法僧の三宝を礼拝し、その教えを拠り所に正しく精進して生きていくことによって、お釈迦さまの慈悲と智慧、そして歓喜を、私達の身と心の上に体現していく事が出来るのです。

曹洞禅ネット「曹洞宗とは」より引用

【自利】おのれを利すること。自己の上にのみ功徳利益を得ること。↔︎利他。

【利他】他人を利益すること。他人に功徳利益を施し、さらに衆生を救済すること。

【利他行】りたぎょう。四摂法(ししょうぼう)の一。おのれを後にして他のために利益をほどこす行い。利行のこと。

【利他善巧】りたのぜんぎょう。衆生を利益し救済するために設ける巧みな方便手段のこと。

【自利利他】自利は自己の利のため、自ら悟りを得んために修行すること…利他は他を利益し、他を救済し証悟させるために、仏法を説くこと…仏教では自利のみを説いて利他を欠くことを声聞、縁覚、また小乗といい、自利利他の二利を具備するものを仏・菩薩、また大乗という。

禅学大辞典より
  • 上田紀行氏『ダライ・ラマとの対話』をご参照ください。ダライ・ラマ法王が1960年代にタイを訪問し、僧院長サンガラジャ氏との対話で「僧侶が社会奉仕活動をする重要性」を話し合った時のことを回想しています。また、法王の話を受けた上田氏が、その後のタイでは僧侶による慈悲の実践として「エイズ患者の支援」などの社会奉仕活動が行われている面もあることを法王に伝えています。
  • 僧侶Cafeとかちの活動を取材してくださったタイ人リポーターから、自国の僧侶の生活と対比しながら、僧侶Cafeとかちが寺院の外に出て一般の方と対話を行う意義について驚きをもって質問されたことがあります。