仏教のはなし

住職が様々な活動を通して書いてきた文章の一部をここで紹介します。まずは、

全国曹洞宗青年会の活動を通じて

全国曹洞宗青年会インスタグラムで仏教語・禅語の解説を担当した際の文章を紹介します。

菩提心(ぼだいしん)

菩提(仏の悟り)を求める心です。曹洞宗では修行の道に終わりは無く、円環のように無限であると考えます。志を持って修行に入り、修行とともに悟りが現れ、心の安らぎの中にまた菩提心が起こるのです。さらに道元禅師は、菩提心を持ち世の人々に尽くす生き方に励むべしとお示しになられました。会員一同、禅師の示訓を胸に会務に精進いたします。

精進(しょうじん)

お釈迦様の説かれた、生活上の8種の実践の中の1つに正精進(しょうしょうじん)があります。正しい努力…坐禅に励むこと、積極的に善行に励むこと、日々の暮らしを怠りなく勤めることなどです。

喫茶去(きっさこ)

お茶でも召し上がれという意味です。「お茶を飲みに行きなさい」とも。

我々の求める悟りとは日常生活から離れたものではなく、日々の暮らしそのものです。お茶をいただくときは、ただお茶を飲むことに専心する。そうして満たされている自分に気づきます。喫茶という日常生活のありようが実は仏の教えそのものなのです。

随流去(ずいりゅうこ)

流れにしたがって行くという意味です。また、生死の流れに随順すること、世間のしきたりに従うことを表した言葉です。

人生の舵取りをするのは主人公である私。しかし時には、自分の計らいを超えた大きな流れの中に飲み込まれたまま生きているような苦しみの日々もあります。抗うことに疲れた時は、この言葉を思い出してみては。

主人公(しゅじんこう)

物語の中心人物を表す言葉として使われていますが元々は「本来の自己の姿」「誰もが生まれながらに具えている仏心」を指す言葉です。

私たちは坐禅を通じて自分本来の姿を実感し、生かされている命(主人公)への感謝の念が溢れます。

そして、私という存在が主人公であるのと同時に、自分の周りの誰もがかけがえの無い主人公である事実に思いを巡らすのです。

放てば手にみてり

手放せば、手は満たされる。

「自意識を手放せば、安らぎに満たされている自分を発見できる」という言葉です。

朝起きるとその日の仕事のことで頭がいっぱい。そのうえ、家族、人間関係、コンプレックス、将来の不安…悩みはつきません。そんな時でも坐禅をしていると、頭を埋め尽くしていたはずの悩みがとても些細な事に思えてきたりします。「悩み苦しんでいる自分すら尊い」とまで思えてくる境地が坐禅にはあります。

伝燈(でんとう)

灯火を伝える。

お釈迦様の教えを「世間の暗闇を照らす灯火」にたとえ、「師から弟子へその教えを正しく伝える」という意味の言葉です。

映画「典座-TENZO-」製作を通して、何百年と変わらず食といのちの循環に向き合い続ける禅の食事と、限りなく繋がるいのちをいただく有り難さをお伝えするために全力を注いでいます。

八風吹けども動ぜず(はっぷうふけどもどうぜず)

享楽的生活・苦しい生活・賞賛される・批判されるなど、心を動揺させるものごとを「風」にたとえ、人生には8つの風があるとしています(八風)。

仏道に精進するものはたとえ心を惑わす八風にさらされようとも生き方に迷うことはありません。お釈迦様から坐禅を中心とした生活を受け継いでいるからです。

「楽しい時も苦しい時も、決して余韻を引きずらない。風をさらりと受け流すように生きていく」ことが瞬間を大切に生きる生活となっていきます。

放下著(ほうげじゃく)

放っておきなさい・捨ててしまいなさい・下に置きなさい

中国の趙州禅師が、「私は執着するものを何一つもたない心境に到った」と誇らしげに語る僧侶に対して言った言葉です。仏教の悟りを体験したとしても、私は悟りを開いたという気持ちに執着しているようではダメだ、ということです。

全てのとらわれを放下した後に残るものは、私ただ一人。その私は一体どうやって存在しているのでしょう。

「悟り」とはその気づきから実践へ、すなわち日々の暮らしに生かされていくものです。-慎み深くあり、身の周りの人を大切にしたくなる-そんな気持ちの源となってくれます。

行雲流水(こううんりゅうすい)

空を行く雲と、流れる水。その一箇所に止まらない在りようから、「執着のない自由な心境」を表す言葉です。我々を取り巻く社会環境も雲や水のように絶えず変化していきます。世間の流れの中で楽しさや苦しさに揺らぐ心の在りようを、それそのままに受け容れて歩んでいきたいものです。

また、仏法の師を求め諸国を行脚する僧侶を雲水というのも、行雲流水の禅語に由来します。

自利利人(じりりじん)

自らを利益し、人を利益する。お釈迦様の最期の説法録である仏遺教経にある言葉です。自ら悟りを得るために修行するだけでなく、他者を救済し導くことの大切さを表しており、日本に伝わった仏教(大乗仏教)を象徴する言葉です。人とつながりを持ち、ともに助け合う暮らしの中に心の平安があることを道元禅師も説かれています。

和顔愛語(わげんあいご)

和やかな表情と思いやりの言葉。自分の心がけ一つで実践できる他者への施しであり、仏道を志す者(菩薩)が人々に安心をもたらす方法として大変重要視されます。

人から温かい表情と言葉をいただくと嬉しくなり、穏やかな気持ちで1日を過ごすことができます。自然と周りの人への心遣いができるようになり、温かい表情と言葉で接することができるようになります。

自分から幸せの循環をスタートさせられるように、和顔愛語を是非実践してみてください。

坐禅(ざぜん)

坐禅は、心の安らぎを求めて「為す」のではなく、自分の生命がここに「在る」ということに徹する行いです。私たちは自分の存在価値というものについて考える時、それを世間との関係や他者からの評価に委ねてしまいます。はたして、他者から規定される私は本当に私の本来の姿なのでしょうか。

坐禅とは日常の全てを放捨する解放のひと時。自分の命だけを生きる坐禅を通じてどんな感情が芽生えるか。坐禅の意義は実践して初めてわかります。

「宝蔵自ずから開く(ほうぞうおのずからひらく)」

あなたが考える「幸せ」とは何ですか。例えばそれはあなたに子どもがいたとして、子どもにはどう生きていってほしいと願うのかを考えると掴みやすいかもしれません。私はただ笑顔を忘れない生き方であってほしいと願います。

生まれてきてほしいと願われて生まれてきた私たちは、幸せに生きるための全てをはじめから備えています。安らかで慈悲に満ちた心を。宝蔵とはそんな自分の本来の心のことを言います。

坐禅をすることで、閉じてしまっていた本来の心の扉が開放されるという道元禅師のお言葉です。

「自灯明法灯明(じとうみょうほうとうみょう)」

自分自身がともし火であり、お釈迦様の教え(法)がともし火である。

お釈迦様が臨終の間際に、泣き崩れる弟子を励まされた最後の説法として大般涅槃経に記されています。「私の肉体が滅んでも、私の教えは消えることはない。よく学び、修行をともにしてきたあなた達の心の中には私の教えが生きているのだから、これからはそれを頼りに歩んで行けばよい」

大切な家族ともいつか別れの時はやってきます。自灯明法灯明の説法のように、一緒に居られる間にたくさんの教えをいただき、思い出を胸に染み込ませていくことが、愛する人の命を自分の中に生かし続けることとなります。

教誨師として

令和元年度研修大会での発表の原稿

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